『ネイティブ講師に倣うか、日本人講師に習うか』
TLS秋葉原校 タイ語教務部長 藤田
知識だけあり、経験がない者は、注釈ばかりの本のようである。
経験だけあり、知識がない者は、読みにくい古典のようである。
20XX年、他人の痛みを感じることのできる機械が発明されたとする。あなたは試しに膝を擦りむいた友人の痛みを分かろうと機械を作動させた。機械により計算された定量的な痛みがあなたに襲いかかる。そして「友人の痛み」は・・・・・・「あなたの痛み」になったのであった。
異性の気持ちを知るためには、同性の意見を聞いたほうがいいだろうか、異性に聞いたほうがいいだろうか、と問われれば、それは異性に聞いたほうが当然いいと思うだろう。しかし聞いたはいいが、理解できただろうか? あなたは知らず知らずのうちに、「異性の気持ち」を「あなたが解釈した異性の気持ち」に変換し直していないか。あなたが質問を投げかけた異性は、異性性を保ったままその気持ちを素直に話してくれたのだが、あなたはその視点を本当に獲得できたのだろうか。※註1
そもそも、なぜ異性の気持ちがわかるようになりたかったのか。それはもちろん自分の恋を成就させるためである。異性の気持ちがわかることは、手段ではあるが目的ではなかった。もし意中の異性と恋仲になることが真の目的だった場合、つまり実用性の面で言えば、同性の成功体験を聞くことも、いやそちらのほうがむしろ有用なのではないか。今日お話しする日本人に習うかネイティブに習うかという問題は、このことと類比的である。
まず確実に言えるのは日本人は日本人の視点で、勉強の仕方を順を追って教えられるということだ。日本人講師はなるほど目標言語のネイティブではないが、「勉強のネイティブ」ではある。目標言語のネイティブは「0からの勉強」というのが本当はどういうことなのかということを事後的にしか知り得ない。つまり勉強の仕方を勉強するのだ。
もちろんネイティブは日本語を勉強したはずなので日本語の勉強に関してはネイティブだ。だからといって、日本人のタイ語学習とタイ人の日本語学習は質的に同じではない。
見る限り多くのネイティブ講師は、日本人の生徒の質問のニュアンスを受け取れていないような気がする。もちろん単に言語能力が足りないと言うのではない。これは語学全般に言えることだが、「あるシチュエーションS1でWという言葉が発せられる際は何が言いたいのか」、ということがわかっていないのである。つまり意味論ではなく語用論である。ある人が喫茶店で「私はコーヒー」と言った場合、当然その人がコーヒーであると自己紹介している確率は低い。(もしそうだとしたら夏目漱石もびっくりだ)。
また、日本人はネイティブに日本語特殊論を持ち出されると - 自尊心も手伝って - すぐに問うことをあきらめてしまう傾向もみられる。つまり日本語は繊細だからそのような言い方は〇〇語にはないんだよと言われると、すぐに(内心喜んで)降参をしてしまうのだ。「やっぱりそうですよね」と。
その点日本人はその(あなたが言いたい)概念をなんとかタイ語で表現しようと苦心したことがある。
日本人は当然自国の料理のおいしさがわかっている。しかし海の向こうの料理も、食べてみると、美味しかったのであった。するとどうするか。自国の料理の良さを、他国の料理で再現しようとする。自国語の尊い表現を、そのニュアンスを、他国の言葉で表現するのだ。
では日本人講師に習った方がいいのか。しかし事はそう単純ではない。
言葉のニュアンスという問題がある。これは中級以上必須になってくるものだが、もうそのくらいのレベルになると、会話に困らない程度の基礎語彙は既に構築されている。すると問題になるのが、「その単語を使った際にネイティブにどのようなニュアンスで受け取られるか」だ。これは実は死活問題である。
この点においてネイティブは強い。圧倒的言語経験があり、人生の中で慎重に言葉を選んできたからだ(国によっては使う言葉を間違えると文字通り死に直結するかもしれない国もあるだろう)。みなさんも経験がないだろうか。普段聡明で言葉遣いも丁寧な外国人が、メールだと変わったニュアンスの日本語を打ってくるのを。
また、言語以外のことで言うと、当たり前だが、その土地で育ったネイティブは文化をよく知っている。面白い小話の二三もできるだろう。面白い話を聞ければ、学習意欲の維持につながる。モチベーションは大事だ。そもそも学習者は、なぜ学習を始めたのであったか。言語の学習そのものを愛していたのだろうか(それはそれでいいことだ)。いや、たいていの人は、その国へ行き、文化に触れ、現地の人と交流したかったのではないか。
忍者の恰好をすると、実際に忍者になったような気分になるように、ネイティブの話し方の真似をすると、ネイティブになったような気がする。これは意外に大事なことである。帰国子女の「それっぽいキザな発音」を、自分たちの価値観に合わないからと言ってからかっている場合ではない。これはあくまで経験上の話だが、各言語にはそれぞれ話し方の特徴がある。そしてそれは恐らく「話し方」という単純なものではない。あるシチュエーションS1でどのように振る舞うことが適切なのかということの一部に話し方がある。それは声のトーン、声量だったり、姿勢、ユーモア、交渉の持っていき方、相槌を入れるタイミングなど多岐にわたる。我々は日々言葉のやり取りを辞書に掲載された意味に則って行ってはいない(そもそも辞書とは経験の集合であった)。コミュニケーションをとる人達の間には、情緒のフィールドが形成されている。更に言えばそれはコミュニケーションの重大な目的の一つだ。無味乾燥な辞書通りの会話は、今これを読んでいる我々世代ではなく、X年後のAIたちに任せようじゃないか。
すると我々はネイティブから教わる内容以外にもう一つ大事なことが見えてきた。それは模倣するということだ。思えば人間は物真似が上手な生物だった。そう、それは誰しも、幼児期にやっていたことだ。
ここまで我々は、ネイティブ講師と日本人講師を比べてきた。しかし本当に大事なのは、良い先生に習う/倣うということではないか。紙幅の都合上良い講師の条件について語ることはできないが、まさにこれを読んでいるあなたの学習目標に向かい手を取ってくれる良い講師に出会うことを、心から願っている。言語を学ぶことは、世界を観察する窓を、もう一枚増やすことなのだから。
To learn a language is to have one more window from which to look at the world
※註1 全く異なる視点がある、ということに気づくためのきっかけとしてはいいだろう。例えば男性雑誌に描かれた女性像、女性雑誌に描かれた男性像を見て学ぶことがあるように、日本文化を紹介している目標言語のウェブサイトを閲覧することは十分意味のあることだと思う。但し結局は多くの内観や経験を経て蓋然性の高い理解を得られるのであり、言語経験値の浅い段階での安易なテイスティングは諸刃の剣である。